大崎市鹿島台小学校
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・場所:宮城県大崎市鹿島台平渡 鹿島台小学校 Yahoo!地図
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作者:翁 朝盛(おきな ちょうせい)
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・説明:1906−1968年 仙台市生まれ 山崎朝雲に師事 三島学園女子大学教授 |
鎌田 三之助(かまだ さんのすけ)翁尊像
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・説明:1863−1950年 衆議院議員、宮城県鹿島台村の村長 品井沼干拓事業に打ち込み「わらじ村長」の名で知られる |
・1952年(昭和27年) 故 鎌田三之助翁頌コ會建立
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鎌田三之助翁頌コ尊像建立記 題額 鎌田一天翁自書
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日本人が二宮尊コ翁の偉業を真に知ることの遅かったのはわが國産業經濟上の一大損失であった。 昭和の尊コ鎌田三之助翁の偉業を顕彰して之を弘く江湖に傳へるのは郷土人の責務である茲に故鎌田翁頌コ會が尊像を建立してその遺コを永く景仰しようとするは誠に意義深い盛事と言はねばならない。 鎌田三之助翁は一天と號し世人は草鞋村長又は今尊コと敬稱した翁は品井沼排水事業に生涯を捧げた鎌田玄光翁を祖父としその遺志を受継いだ三治氏の次男として文久三年一月十三日志田郡鹿島臺村木間塚に生れた幼少から英才の譽が高く十五歳の春星雲の志を抱いて東都に遊学し明治法律学校に法学を専攻し後日に於ける政治家としての素地を培ったのである。 翁は明治二十七年四月齢三十有二で速くも宮城縣會議員に選ばれその中堅として縣政に活躍しその間父祖二代が苦闘された品井沼干拓事業を継承して之が貫徹に心血を注いだ更に同三十五年八月本縣選出代議士として國政に參與し大いに将来を嘱望されたが偶々海外發展の急務なことを覺り挺身して移民事業を興し同三十九年四月自らメキシコに渡って國策の實現に努力した。 時恰も郷土は水魔と政争とによって荒廢し地方民は苦難の底に喘き全く絶望の状態に陥ってゐた性来郷土愛に富む翁はこの惨状を異國に於て知り之を黙視することは出来なかった。且村民の切なる懇請もあったので同四十一年一月決然として宿志を捨てて帰國し翌年三月特に推されて鹿島臺村長の重職に就かれた爾来地方自治に携ること實に十期三十有八年翁は世の名利を超越し学校の統合神社の合祀並に部落有財産の統一を始め全村負債整理及び植林奨励等只管荒廢した郷土の信仰と地方民の福利増進の為の粉骨碎身精根を傾けた就中品井沼干拓事業の完遂には全身全霊を打込んだのである。 郷土鹿島臺町を始め品井沼周辺地區の今日の興隆は一に翁が畢生の努力の賜といふも過言ではない。 又翁はその間三期六年に亘り擧げられて本縣町村長會長の要職に就き地方自治の確立と水害対策の為め東奔西走されたことは素より各種公共團体の役職員としてその事業振興に盡瘁された事績は枚擧に遑がない尚翁は八十の齢を越えるも矍鑠として壮者を凌ぎ而も村長の激職にありながら曩に親しく満州の分村地を視察せられたばかりでなく北は北海道より南は九州四國の地に至るまで講演行脚の足跡遍くその薫化の弘く且深きことは今更贅言を要さない所である。 思ふに翁がその人となりや誠實にして孝心に篤く聰明にして正義の念強く人に接しては謙讓にして寛大常に率先躬行して事に倦まない意志の人であった終生勤儉の二字を身に體し弊衣破帽に草鞋脚絆腰に握飯姿を以て一貫した信念の仁で全く聖者の如き風格の大人物であった蓋し草鞋村長或は今尊コと國寳視されたのも偶然ではない。 かかる崇高な人格から迸り出た翁が業績は自ら世人の推稱する所となり大正九年品井沼排水事業功勞者として宮城縣知事から表彰されたのを始め昭和二年自治治水功勞者として藍綬褒章を賜る等その光榮に浴されしこと實に前後二十数回に及んでゐる更に晩年自治功勞抜群の故を以て同十九年内務大臣から光輝ある自治顯功章を拝受されたのである。 一度頌コ尊像建立の議が起るや地元住民は素より関係各町村民並に全國各方面の有志等あげてこの擧に賛同し翁が生涯の偉業を稱讃して止まない祖國日本に再び平和の訪るるこの時郷土の大恩人鎌田翁の頌コ尊像を建立してその遺コを後昆に傳ふることは真に時宜を得た不滅の事業である。 ここに親しく仰ぐ翁が尊像は本邦彫刻界の巨匠翁朝盛氏が心血を注がれた會心の作である翁が晩年の俤がさながら髣髴として生けるが如くその絶倫なる精力と鐵石の如き信念そして慈愛に溢れる温容とは又躍如として真に迫るものがある朝な夕な道行く老若男女は等しく敬愛の念を以て之を仰ぎ永く勤儉の訓に頭を垂れることであらう余菲才不文をも顧みず唯々身に餘る多年の知遇と聖者の如き一天翁が八十八歳の尊い生涯とを追慕し且尊像建立の真意を深く汲み謹んでこの記を記す所以である。 |
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